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【夏コミ72】表紙の製作途中を公開。 あと、後半は長いコラムもあります。
2007年07月08日 (日) 08:00 | 編集
【夏コミ72】表紙製作中■表紙製作途中の画像。
 夏コミには間に合いそうもないですが、着々と作業は進んでいます。
■今回の読み切り漫画は、『悠久天国6act-2』に収録した読み切り漫画の続作にあたるので、表紙の背景もそれに合わせてますw
 え?天下の往来で真っ裸? さぁ・・・・何も着ていないのか、それともタオルの下に何か見に付けているのか・・・。そこはご想像にお任せしますww
■朝になると朝日がモニターに差し込んで、ちゃんとした色再現が出来ないので作業がストップしてしまいます。だから午前中は表紙作業は出来ません。 他の作業と並行しながらなので、なかなか表紙が完成しないのが悩みどころです(^_^;

■さてさて、今回の表紙の解説ですw

 今回はなんと言っても「タイトルを隠してる」って所でしょうか。ポイントは。

 「ポイントはトリーシャじゃないのかよ!? てか、もっと下の方を見せなさいよ!」という声が飛んできそうですが(笑)


 マガジンなどの漫画雑誌に限らず、テレビや地域の情報雑誌では、「被写体が雑誌タイトルロゴを隠す」ことは良くある事ですが、同人誌ではあまりそういうのを過去に目にした事はありません。

 「タイトルロゴがキャラクターを隠している」というのはざらにありますが、ホント、こういうのは他に例を見ないのではないかと言うくらい、少ないケースだと思います。

■一般的な雑誌は、いわゆる「ネームバリュー」や「キャラクターバリュー」を持っていますので、多少タイトルが隠れていようが、「いついつに出る雑誌と言えばコレ」「このキャラが連載されている雑誌と言えばコレ」というように、読者は一目で判断できるわけです。

 まぁ、つまり、「自分が読みたいと思う漫画のキャラなり、ゲームなり、芸能人が表紙に写っている、または、記事が掲載されている」事が、その雑誌の購入動機に繋がる事は、いまさら説明しなくても誰でも分かる事ではありますが、ここがポイントなので、あえて押さえさせて頂きましたw


■とどのつまり、「トリーシャの本ですよ」という事さえ「分かる人に分かって貰えれば」、「同人誌のタイトルはさほど重要ではない」という事を、この表紙を作成する過程で考え、至りました。

 また、この本を手に取られた方が、今後「トリーシャと言えば『このサークルの作る』、『このタイトルの本』」というように、認知して頂けるのではないか・・・・、という目論見もあります。

 ※勘違いして頂きたくないことは、今回の表紙には「一般的な雑誌スタイル」を採りましたが、『悠久天国』にネームバリューがあるとは全く思っていません。また、自分の描くトリーシャは原作トリーシャに似てない(しかも原作コスチュームを着ていない表紙な)ので、潜在的なUQファンに果たして訴求できるのか、全く持って不明ですし、ほとんど自信はありません。 上で述べた「ネームバリュー」や「キャラクターバリュー」に関しては、あくまでも商業誌における“例”である事をお心留め下さい。



■この表思案を作った当初は、トリーシャの持っているタオルの部分に、タイトルロゴを載せる予定でした。

 しかし、いざ両方のパターンを作ってみると、今回公開した画像のような、『雑誌スタイルのロゴ配置』の方が、キャラクターが映えるし、『収まりがイイ』という結論に至りました。

【夏コミ72】表紙製作中・ロゴ配置候補
―――――――――――――――――――――
●ラフ画段階の絵。
 ちなみに、ロゴのデザインが現在のものと多少違っています。
●「どちらがデザイン的に良いか」と言われれば、タオルの中の「空白」がない右側ですが、『表紙』という“機能”を考えると、左の『雑誌スタイル』に軍配が上がりました。
―――――――――――――――――――――

 もう少し説明を加えると、タオルを斜め持ちしているので、自ずとタイトルロゴも斜めになります。 そうなると、どうも『不安定感』ばかりに気を持って行かれる気がしてならないのです。

 友人のシゲからは『雑誌スタイル』を反対されましたが、今回はこのデザインを採ってみたいと思います(w


■また、タオルにロゴを載せない「無地」にした事で、『タオルの向こうに潜むハダ』というのが見る人を想像させて、前に私が言っていた、「隠れてるからこそエロイ」というのが際立ったように思えます。

 人は「足らない部分があると、ついつい『補いたくなる』」らしいです。

 例えば、地図に一本の道があって、その途中が虫に喰われていて穴が空き、その部分がいったいどうなっているのか分からないとします。

 すると、地図に書かれた等高線などから、「ひょっとするとこの部分は崖になっていて、もしかすると繋がっていないのかもしれない」とか、「おそらくこの部分には素敵な“何か”があるのかもしれない」などど、地図に書かれたありとあらゆる限定された情報を元に、人は様々な想像を膨らませる物なのだそうです。

■そう。「隠れているからこそエロイ」という感覚も、上の例と非常に似ているのかもしれませんw

 『足らない情報を脳内で補う作業』が、人を楽しませるわけですねw

 『この隠れている部分はいったいどうなってるんだろう…。』という好奇心が、「もしかしたら水着を着ているのかもしれない」→「だとしたらどんな形?どんな色?」と、想像は膨らみます。
 もちろん他の想像もありです。


 んーーーー・・・。ここまで書いていて、
 何だか自分自身が痛い人間に思えてきた・・・(笑)
 ついてきてますか?皆さん(笑)


■付いてこられない方のために、もうちょっと分かりやすい例を挙げますと、そうですね、「ファミコンのゲーム」を想像して下さい。

 ファミコンのゲームに表現される世界は、本体のスペックとROM容量、音楽の再生機能などが貧弱であるため、非常に簡潔にしか表現できません。
 それこそ、わずかなドットでしか、世界を表現できなかったわけです。

 しかし、そんな限られた制約のマシンでも、ファイナルファンタジーやドラゴンクエストなど、ありとあらゆる名作は生み出されていきました。
 特にファイナルファンタジーは、素晴らしいドラマを「ドットキャラ」で見事に表現しています。


 なぜ色数が少ないドット絵で顔の表情の表現もなく、ただただテキストだけが流れるゲームで、プレイヤーは感動できたのか。

 それは小説と同類の、「想像力」が働いたからに他ならないのではないでしょうか。

 ドット絵ではあったけども、プレイヤーの頭の中ではきっと、ハリウッド映画張りの美しい画面が描かれていたのではないでしょうか。 言い過ぎでしょうかしら?(汗)


 ファミコンソフトは、表現できない部分があったからこそ、プレイヤーは自由に入り込める余地があり、想像する楽しみが味わえました。

 しかし、昨今のゲームソフトは「なんでもかんでもリアルさ」を追求するものばかりで、ユーザーが想像する努力をするまでもなく、舞台は完全に出来上がってしまっています。

 よく昨今のゲームを「見させられている(ムービーゲー)」とか「させられている」と表現する人がいらっしゃいますが、『完全な状態に出来上がった世界であるがゆえに、想像することを楽しむ余地』がないから、逆にゲームに入り込めなかったり、キャラクターに感情移入できなかったりするのではないでしょうか。
 まぁ、これは私以外にも何人もの人がもっと分かりやすい表現で仰っていますが。


■話を元に戻しますと、今回公開した画像において、タオルで隠さずに、「すっぽんぽん」であったり、もしくは、「何かを着用していた」としたら、「見る人の思考や感じ取り方はもうそこでストップしてしまいます。」

 上で述べたゲームの例で言うところの、「全てを表現しきってしまった」状態になるわけです。 つまり、「『製作者側の提案する世界観』しかプレイヤーなり読者は、受け取ることしか出来ない」ということです。

 そうではなくて、プレイヤーや読者に「『想像する楽しみ』を残すこと」が、大切なのではないかなぁ・・と。

 たった一枚の表紙画像ですが、そこまで考えて、私は作っていますw


■一つ悲しいのは、最近のAVGやRPGなどのゲームの読者レビューを見ますと、たとえば「フルボイスじゃないからヤダ」とか、「立ち絵がアニメーションしないからヤダ」というレビューを良く見かけます。

 私からすると、「だから、イイんじゃないか」と思うんですよ。


■たとえば、キャラクターが一言、「ヤダ」と言うとしましょう。

 このテキストからどのようなイントネーションでこの言葉を発言しているのか。 それは、プレイヤーそれぞれが、この言葉に行き着くまでのシチュエーションややり取りなどから、『自分だけの「ヤダ」』というセリフを生み出せるわけです。
 つまり、小説と同じ感覚を味わえるわけです。

 「ここは宇宙。」という言葉だけで、千差万別、十人十色の「宇宙空間」が誕生します。 その「想像」が、楽しみを生むんです。


 もし、フルボイスのゲームで「ヤダ」とキャラクターが喋りますと、もう「たった一点の抑揚」しか、生まれません。他の想像をする余地を与えられることがないんです。
 これこそが前述した「製作者側が提案する世界観を、プレイヤーに半ば強引に『見せている』」ということです。

 映画ですと、すばらしいVFX効果で「宇宙空間」の映像を作り出しますが、観客は「あぁ、スゴイね~」としか思えず、「自分が想像する余地」はそこにはないんです。

 だから、例えば小説を映画化しても、あくまでもその映画は、その小説を読んだ監督なりプロデューサーなり、スタッフなりが想像した世界の再現であって、小説を読んだ全ての読者にとって、自身で考えているモノとは少なからずギャップがあります。 だから、「原作の方が良かった・・。」という残念に思う声が、けっこう聞こえてくるわけです。


■さて、そろそろ話を終わらせましょうね~(w^;

 先ほどのAVGの話に戻しますと、「悠久幻想曲」や「エターナルメロディ」などは、まさしく自分の理想どおりのゲームだったように思えます。

 両作品で描かれる街の世界観は、非常に謎に包まれています。
 小説やドラマCDなどで、そういった謎の部分を補完してくれていたりもしますが、なおも謎は多く存在します。

 この「残された謎」こそ、「読者が好きに想像する余地」であり、また、「同人誌を作りたくなる動機」に繋がるわけですね。

 また、UQもエタメロも、どちらもゲーム中特にアニメーションもなく、あるのは数点の表情パターン一枚絵のみ。 ボイスも各キャラともに重要なイベントにのみ入り、途中はテキストのみ。

 だからこそ、小説と同じ感覚、想像する楽しさを、プレイヤーは味わえるわけですねw

■「隠れてるからこそエロイ」「見えないからこそエロイ」というテーマだけで、まさかココまで話し込んでしまうとは、自分でも驚きですが、
 「直球ど真ん中なエロ」とはまた別の楽しみ方を、今回の表紙と作品の中で、楽しんで頂ければな・・・と思いながら、今日も製作に勤しんでおりますw


 まぁ・・・・・・・? こういう「わざと隠す」ってのも、製作者側が読み手に「製作者側の意図を押し付けている」ような気がしてしまって、「しまったなぁ・・・・」とは思うんです。 たとえば、連載漫画を読んでいても、強引な読者サービスが間に挟まれると、逆に萌えられなかったりしますよね。
 今回の表紙はまさにそういう事を自分でやってしまったなぁ…。と深く反省しています。
 今後その辺も自然に表現できるように、スキルアップしていきたいと思いますので、今回は大目に見てやって下さい(^w^;
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